秋元梢の母・秋元久美子の家柄が凄い!?秋元久美子の親族について

秋元梢の母・秋元久美子の家柄が凄い!?秋元久美子の親族について芸能人
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秋元梢の母・秋元久美子の曾祖父/進藤喜平太

秋元久美子さんの曽祖父にあたるのは、なんと明治時代から大正時代にかけて活躍した、国家主義者であり衆議院議員の進藤喜平太氏。

進藤喜平太氏は、1851年1月6日に今の福岡県に当たる筑前国にて、福岡藩士の家庭に生まれました。福岡藩校文武館や興志塾で勉学に励んだ後、戊辰戦争へ従軍。

その後は、自由民権運動家である箱田六輔たちとともに、福岡藩兵制改革を唱えたり、武部小四郎・頭山満らとともに、自由民権運動に参加したりしていました。

就義隊の結成メンバーであった箱田六輔氏とは、後の1879年に向陽社を設立。箱田の死後に社長へ就任し、「九州侍所の別当」と呼ばれたのだそうです。

向陽社(現在の玄洋社)は「日本で初めて誕生した右翼団体」とされており、戦前から戦中期にかけて、軍事や官僚・政界などといった、国の中枢となる組織や期間に対して強い影響力をもっていた政治団体です。

また、向陽社の初代社長であり、第9回衆議院議員総選挙において、福岡県福岡市選挙区から当選した平岡浩太郎氏の死去に伴い、1906年に行われた補欠選挙にて当選。改進党系の政党の1つである憲政本党に所属し、衆議院議員として1期在任しました。

進藤喜平太氏らが作り出した向陽社(玄洋社)は、寺田栄氏(鳩山由紀夫さんの曽祖父)や、元朝日新聞社副社長の緒方竹虎氏などといった、多くの著名人を輩出しています。

秋元梢の母・秋元久美子の父/進藤龍生

秋元久美子さんの父親は、曽祖父の進藤喜平太氏が活躍した玄洋社に関する資料や品々が保管されている玄洋社記念館の館長であった進藤龍生さん。秋元久美子さんの大叔父にあたる進藤一馬氏の甥にあたる人です。

他にも、福岡県福岡市中央区舞鶴にある玄洋社跡地に隣接して作られた雑居ビル「玄洋ビル」の社長でもあった人です。

玄洋社記念館も、こちらの玄洋ビルに位置していましたが、2005年1月25日に進藤龍生さんが亡くなったことに伴い、2008年5月末をもって閉館。玄洋ビルも後に解体されました。

現在、玄洋社に関する資料は福岡市博物館に寄託されており、玄洋ビル跡地の隣に建設されたNTTドコモ舞鶴ビルの一角に、玄洋ビルおよび玄洋社の記念碑が建てられています。

進藤喜平太氏と同様に、玄洋社のこれまでの歴史を受け継ぎ、伝えてきた人物といえるでしょう。

秋元梢の母・秋元久美子の大叔父/進藤一馬

秋元久美子さんの大叔父は、政治家であり実業家でもある進藤一馬氏です。秋元久美子さんの曽祖父に当たる進藤喜平太氏の四男にあたります。

進藤一馬氏は、早稲田大学の政治経済学部を卒業後、ジャーナリストであり政治家でもある中野正剛氏の秘書や、九州日報社(現在の西日本新聞社)の取締役を経て、玄洋社の社長に就任しました。すでにこの時点でかなりハイスペックな人物であることが伺えます。

その後の1944年には、第10代玄洋社の社長に就任。GHQによって解散させられる1946年まで社長として活躍していました。

また戦後になると、旧玄洋社社員たちのサポートを受け、1958年には政治家として自由民主党に属し、福岡県第1区に出馬・当選。

通商産業省(現在の経済産業省)や法務省の政務次官を務め、1972年に福岡市長選挙にて当選し、第25代福岡市長として4期まで活動しました。

4期の途中で健康上の理由によって福岡市長を辞任・引退しており、その後は玄洋社記念館の館長を務めていました。

ちなみに、市民を想う優しい人であるが故に、福岡市長としての立場との板挟みになって悩むことも多かったようで、福岡市南区にある桜並木にはそんな進藤一馬氏に関する逸話が残っています。

その逸話というのが、道路の拡張工事に伴い、南区にある9本の桜並木が伐採されることになった時のこと。近くに住む福岡相互銀行(現在の西日本シティ銀行)の職員が、「進藤市長殿。花が可哀想なので、せめてあと二旬(20日程度)開花を許してあげてください」という内容の短歌を詠み、桜の木に飾りました。

その短歌を偶然見つけた、当時九州電力の社長であった川合辰雄氏が、部下の協力のもと、西日本新聞に記事として掲載。

記事を見た進藤一馬氏は回顧録にて、「拡幅工事の公益性は分かっているが、せっかくつぼみを膨らませている老いた桜の木に、せめて最期の開花を許してくれと訴えています」とコメントするとともに、「市長である私がどう思っても、個人としての私情ではどうにもならないことが行政には多々ある。だから桜の木は伐り倒されるかもしれない…」と複雑な気持ちを語っていました。

しかし報道を受けて、桜を救いたいと願う人々が多く集まったことも相まって、進藤一馬氏は福岡市の道路計画課長であった石井聖治氏に「できれば桜を残せないか?」と頼み込み、道路拡張計画の変更をしたことで、桜を守り抜いたのです。

このような逸話から、進藤一馬氏は福岡市民たちから「花守り市長」と呼ばれ、高く評価されたのだそうです。

1992年11月28日に、88歳でその生涯を終えましたが、進藤一馬さんの活躍は福岡市の歴史に深く根付いており、現在でも福岡市中央区にある福岡市美術館にて、進藤一馬さんの銅像が展示されています。

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